マイルス

 先日買った"Spectator"赤塚不二夫号に、赤塚と共通する部分があるとしてマイルスの印象が語られている。エレクトリック期のマイルスはバンドの中でコンダクター兼ソロイストであるが、バンドのメンバーが演奏している時はその横で威圧していて、マイルスが演奏に関わっていなくても出来てくるのはマイルスの世界である、というようなことが書いてある。

 一方で、菊地雅章の"But not for me"のライナーノートには、マイルスとセッションした時の体験について、菊地本人のコメントとして記されている。「本当に凄いんだ。「こうだ」といってマイルスがおれに弾いて聴かせるガ―ッていうオルガンのサウンド一発が、理論を超えたところで音楽になっている。(中略)マイルスと一緒に演奏していると不思議なことに、自分の持てる力の倍の力が発揮できちゃうんだ。まるで吸い取られるというか吸い出されるような感じにね」マイルスとの演奏が直接の転機になったのかは分からないとしながらも、長い悩みの時期を突き抜け自分の音楽に対する視界が開ける前に、このセッションがあったという。

 どちらも直接マイルスを評するために書かれたものではないし、世に出ているマイルス論をたくさん読んだわけではないけれど、こんな風にちらっと出てくる話だけでもマイルスがいかに巨大な存在だったのか、その特殊性のようなものが垣間見られる。個性派揃いのプレイヤー達を自分の音楽の一部にしてしまいながらも、潜在能力を引き出して彼ら自身の音楽に開眼させてしまうなんてことは、相反することのようにも思える。ステージとセッションで違いはあるのかもしれないが、しかしそんなことが本当にできるのだとしたら、ものすごい音楽ができあがるのは確かに納得するところだ。そしてそれは残されたマイルスや彼と共演したミュージシャン達の作品が大いに語るところだろう。