五輪所感

 五輪関係者が、開会を前にして次々と退場していく。こうなってくると、主催側も反対側も、五輪を自分たちの欲望のために利用している側面が極めて強くなってしまっている点で共通しているように見える。

 今日は開会式の演出担当者が解任された。詳しく知っている人物ではないが、彼からしたら知らぬ間に朝起きたら解任が決まっていた、くらいの急な状況ではなかろうか。20数年前の作品に人種の問題に触れる表現があったことが原因だとし、彼は五輪に関わる資格を持たないと土壇場で判断された。おれはここ数年のデザイナーとしての彼を少し見かけていた程度だから、かつてはそんな表現をしていたこともあったことに少し驚いた。同時に、今の彼はそういう表現を好むのだろうかという疑問をかなり否定的に持った。それについては、おれの見込み違いの可能性もあるとは思う。しかし、それでは彼に演出を任せ一夜にして解任した人たちは、彼の何を見込んで仕事を依頼したのだろうか。開催側から、適当でない人選をして申し訳ないというコメントが出た他に、周辺では、選んだのは自分ではないとか、言語道断であるという被害者的な立ち位置に回ろうとするコメントも出ていた。

 おれの思う理想は。経歴を精査した上で今の彼の資質を信じて仕事を依頼してほしかった。過去の表現について批判が出たとしても、それ以降の彼の歩みを信じて起用したのならば、批判自体にはきちんと謝った上で、どうか今の彼の表現を見た上で改めて判断をしてくれないかと弁明してほしかった。五輪関係では、それすらできないほど、極端な潔癖さが求められるのか。もっと汚い話はいくらでも聞こえてくるのに。

 過去の自分の行動を過ちと認めた者にしか、語れない、表し得ない事柄もあるはずだ。それは、上っ面を塗りたくって量産される夢と希望のストーリーではきっと描けないものを湛える可能性があると思う。