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 差別問題に関する事柄で、必ずと言っていいほど使われる「構造」という言葉。この言葉は、単に差別する者される者という対立の構図のみを表すのではなく、非常に複雑で奥が深い、最重要事項だ。あらゆる差別を構造的に捉えることができるかどうかが、果てなく見える解決への道の一歩目なのかもしれない。また、どれだけ自分から距離がありそうに見える出来事であろうとも、自分もその構造の内に在るのだと認めることが必要だと思う。そういうリテラシーのようなことを身に付けられるかどうかは、学習や観察を行う環境、意欲、センスなど、様々な要因があるだろうから、すぐに身に付く人もいれば、なかなか理解できない人もいて当然だと思う。差別的発言を指摘された者が、「受け手の解釈の問題である」としてしまうことは、そういうリテラシーに欠けると思う。さらに、彼がそのリテラシーを持つことが難しい理由として、高齢であることを別の誰かが挙げるのならば、それは既に別の差別を構築しているように見える。

 これまでおれは、ぼんやりと、差別するのもされるのも本当に嫌だなあ、くらいにしか受け止めてこなかった。その程度で生きてこられたのは幸運と言える。しかしこれだけあらゆる問題が表面化してきている今も、見知らぬ誰かの言動を糾したいという感情は持てないし、むしろ持たない方がいいとすら思っている。この態度は、これからの世の中では悪いことなのかどうか。

 "100分de名著"のフランツ・ファノンを見たり、そのテキスト読んだりしていてそういうことなど色々考えた。