雑感

 昨日、小島武についてのトークイベントを聞きに行った。こういった場に身を置いたのは、何年振りだろう。開演前の雰囲気がなんだか眩しい。普段の生活との乖離にくらくらして、逃げ出したい気持ちになった。絵描きとしてのみならず、デザインや音楽に関する仕事も残している、多才な人物の片鱗に触れることができた。しかし彼の経歴については、長年のファンである登壇者の方々でさえも確かな情報は多くなく、貴重な手掛かりから想像を巡らすのが楽しかった。

 資料として示されたのは雑誌や書籍、レコードの片隅のクレジットなど。今は調べものの第一手がインターネットになったのに、間違った情報がまことしやかに載っているから怖いよなあ、という一幕があった。そういうことを聞くのはもちろん初めてではないが、ソースどころか誤字脱字すらもお構いなしでドンドン上がっているネットの記事を見ると、なんでこうなってしまったんだろうと思う。

 15年以上前くらいには、今よりももう少しネットに触れる機会が少なくて、その頃はネットで目にする情報それぞれに対する信用度には、もっと細やかな濃淡のような感覚を持っていた気がする。例えば、何かを調べようとすると、専門性の高い個人サイトやブログに行き付くことが多かった。匿名性やミスタイプがあるのは今と変わらないが、読んだ内容に応じてどれくらい信じるか、その情報をどう扱うかを、ある程度自分で決めていたところがあったと思うし、その適切さの感覚は自分で養っていったはずだった。24時間ネットに繋がった生活が当たり前になった今、より声のでかいやつが客を集めるために放つ情報は引力だけが凄まじい。暇潰しの合間に引き付けられた「客」は、特に対価も払わずにいい加減な情報を掴まされたとしても、その責任は自分には当然無いと思い込み知らない誰かに追いやって、すぐに忘れてしまう。そういうことが延々と繰り返されていることは、怖いよなあ、という状況が猛スピードで進行した背景のひとつとしてあると思う。自分が読んでいるものが、求めている「情報」なのか、何かの「宣伝」の一部なのかは、自分で区別する必要がある。悪趣味で派手なだけの宣伝動画をなるべく多くの人に流し込むため、回線速度がやたら早くなった。

 面白い個人サイトをやっていた人たちは、年代も上がってそんなのやれないほど忙しくなったか、SNSに流れたり、個人的な付き合いで楽しんだりしているのだろうか。おれは個人サイトやブログのちょっと寂しい感じが好きだったので寂しい。阿部寛のホームページを見ると少しほっとするくらいだ。